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広報白石
観音堂前灯籠ー平成19年7月号ー

 天保11年(1840)の制作で三段基壇の上に立つ、高さが4m近くもある堂々たるものです。特徴的なのは、頂上の宝珠(頭がとがった玉形で、炎が燃え上がっている様を表している)の代わりに玉をくわえ蹲踞した阿形の小型唐獅子が乗っていることです。基礎に「西山儀之助」以下21名の「若者中」の名前と「石工 當村 西山徳兵ヱ 塩田 筒井伊右衛門」と刻まれていますが、「當(当)村」というのは「堤村」のことで、地元の石工西山氏と塩田の石工筒井氏との共同制作ということになります。これと同じ組み合わせによる制作と考えられる例が他にもあります。  この灯籠の左側に、逆立ちした唐獅子が宝珠の代わりとなっている灯籠があります。文化13年(1816)に「丸田曾十」なる人物が願主となって寄進したものです。前記の灯籠より24年前の制作ですが、その意匠や高さなど共通する部分が多く見られます。と言うよりも前記の天保11年銘の灯籠はこの文化13年銘の灯籠を真似て制作されたもののように思われます。  おそらく、文化13年に宝珠の代わりに唐獅子が乗る灯籠一対が「丸田曾十」により観音堂前に寄進され、右側の灯籠が破損したか何なの理由で、天保11年に左側の灯籠とほぼ同様なものを新たに制作し直したと考えられます。それにしてもなぜ宝珠の代わりに唐獅子なのでしょうか。


ふるさと歴史探訪ー太田心海先生ー平成10年12月号

平井氏といえば、龍造寺隆信に滅ぼされた高城の城主、平井経治のことがよく知られている。平井一族の墓と言い伝えられている寿墓(生前に立てた墓碑)も陽興寺の須古鍋島家御霊屋の北側にある。経治について、江戸時代に記された『水堂観世音霊水縁起』には、次のようにある。「応仁の乱の頃に至り天下不穏、乱軍の世となり兵火にかかり殆ど烏有に帰しぬ。降って天正年間(1573〜1591)、領主平井経治此の霊地を空しく荒廃に委するを嘆き安福寺を建立し、尚、他の堂宇をも修復中、龍造寺隆信の攻むる処となり、敗戦して水堂越えをなし、人村に落ち行く途次、火を放って悉く之を焼き払ひしぞ口惜しけれ」このように、経治は水堂安福寺復興の功労を認められている反面で、自ら復興した安福寺を灰儘に帰した責めも負わされている。 平井氏については、逃げてきた一族が伝えたと言われている平戸市やその周辺の大島や鷹島などに伝わる須古踊が有名である。また、踊の形態は異なるが、大村市にも寿古踊があり、文明12年(1480)有馬純伊の時に肥前須古の者が教えたという。その頃には須古踊というものがあったのであろう。それを有名にしたのが、経治の伯父で歌道や連歌の達人であった新宗吟入道であった。平井氏が高城城主になったのは、経治の父、経則の 頃ではないかという説もあるが、実はもっと早く文明年間(1469〜1487)には既に須古・白石一帯を統治していたと思われる。それを裏付ける二つの証拠がある。一つは大分県国東町千光寺の阿弥陀如来坐像であるが、これはもと肥前国杵島郡北郷安福寺塔の本尊だったもので、永仁2年(1294)に製作されている。それを文明6年(1474)に修復した時の体内の銘文に「大旦那平井資世子息頼秀」とある。もう一つは、長崎県鷹島町住吉神社所蔵の大般若経600巻の内、第73巻の奥書である。これも本来、安福寺に寄進されたものである。その奥書にも「大旦那平井資世子息頼秀」とあり、日付は文明5年(1473)6月となっている。この頃、水堂安福寺の大復興事業が行われたことが分かる。そして、その願主が平井一族であったのである。 これらのことから、平井一族が中世白石の文化に大きな寄与をしたというのは、言い過ぎであろうか。


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