今年の出水法要は5月22日から8月18日までです

観音堂

水堂の境内の中で中心となるお堂です。 宝永4年(西暦1707年)に建立されました。屋根は葦葺き(よしぶき)で、戸は昔ながらの鎧戸(※1)です。 出水法要(※2)中に、参拝された信徒の方々が、各家のご先祖様の回向をされます。また、受付にて塔婆(※3)供養や経木塔婆を申し込まれ、霊水堂へお供えされます。 ※1.鎧戸(よろいど)細長い薄い板を、透き間ができるように何枚も斜めに並べてとりつけた戸。日光の直射を防ぎ通風をよくする。 ※2.出水法要(でみずほうよう)毎年旧暦4月15日(寅の刻:午前4時)から7月15日(未の刻:午後2時)の夏安居(げあんご)の時期です。 ※3.塔婆(とうば)・仏舎利を安置し、供養するために建てる塔。・死者を弔うために墓のうしろに立てる、塔の形をかたどった薄くて細長い板。板塔婆イタトウバ。=卒塔婆ソトウバ。 中に入る

薬師堂

このお堂は戦前まで佐賀市内の谷口鉄工所の菩提所(仏壇)としてお参りされていました。戦後維持管理が難しくなり、水堂へ寄進されました。彫刻は寺院のお堂とは違い、細かい細工が施されています。すべて、台湾檜の木材を使用されています。 中へ入る

霊水堂

本尊は聖観世音菩薩です。観世音菩薩を中心に左右に三体づつ、六地蔵が安置されています。 観世音菩薩の下より、霊水が出ます。この霊水を求めて期間中は佐賀・長崎・福岡より信者の方々がお参りされます。期間中3万人から4万人の方が来られます。六地蔵(※1)の前に新しい仏様の戒名や先祖代々を塔婆に書き、お供えされます。 霊水は持ち帰って仏壇にお供えしたり、薬を飲むときやごはんの中に入れたりして、無病息災を祈ります。この霊水は何年過ぎても腐らないといわれています。 ※1.衆生シユジヨウがこの世で行ったそれぞれの行為のむくいとして、死後住まなければならない六つの世界。地獄・餓鬼ガキ・畜生・修羅シユラ・人間・天上の 六つの世界お地蔵様

重盛の塔

石垣で囲まれた土壇に立つ全高2.3mの宝塔。 円形の塔身の四方に金剛界の梵字(東-阿シュク如来、西-阿弥陀如来、南-宝生如来、 北-不空成就如来)を記し、基壇には「元応元年(1319)7月吉日」の銘があります。安政3年(1856)に描かれた「杵島郡須古郷図」には、この宝塔が「平重盛石碑」と記されています。 この宝塔がいつ頃から「重盛の塔」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、同じ安政3年の『水堂霊水略縁起』に記載されているように、「霊水」と関係の深い平重盛(平清盛の長男)に対する敬慕の念や平重盛が水堂安福寺の「中興開基」と伝えられていることと関係が深いといわれています。 町内には他を見ない鎌倉時代の石造物の傑作であり、水堂安福寺の歴史を物語る遺物の一つです。

松尾芭蕉の句碑

「老の名のありとも知らで四十雀」明治16年に須古俳壇によって建てられました。

厄除け不動の滝

滝の左に不動明王が安置されています。 夏場になると、不動明王の信者の方々が身体健全・無病息災・願成就のために滝に打たれる荒行を厳修されます。

十六羅漢

1789年建立。 建立時は、本坊安福寺からの参道沿いにありました。しかし近年の車社会にて、車道が出来て参道を歩いてお参りされる方が少なく、昭和38年に現在の場所へ集められました。

合掌観音

昭和40年建立。 地元の白石平野の土地改良事業の成就のために白石町によって建てられました。現在では農作物の豊作を祈願し、風雨順時等を祈る観音様として親しまれています。

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